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三輪が岸部四郎を諭す

5時36分の気温は6.8度で湿度は68%だった。ラジオから「星影のバラード」や「冬のひまわり」、あのころのフォークが聴きたいではチェリッシュの「決心」が聴こえていた。そしてラジオ体操は36名が参加していた。

昨夜、オーラの泉を見ていた。三輪が岸部に「あなたは自分の吐いたガスを自分で吸い込んでいる」「学校のように一日の計画を立てて自分で自立しなさい。あなたは亡くなった奥さんの写真をみて愚痴ばかり言っている」と岸部に渇を入れていた。「人間はいろんな人生を楽しむ権利がある。みんな苦しみを乗り越えて生活しているのです」と岸部に「耳の痛い言葉こそありがたいと思わなくちゃいけない」と諭した。

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夜空のむこう

5時23分の気温は5.6度で湿度は89%になっていた。ラジオ体操は50名が参加していた。この時期にしては多く集まりました。公園から我が家までの間を行ったり来たりして散歩する。7時過ぎに朝食。万歩計は12600歩になっていた。

ラジオから福村典子の「さとごころ」、「東京」、東京へは もう何度も行きました。
君の住む 美し都、東京へは もう何度も行きましたね。君が咲く 花の都。そして10年も住んだ「東京」が懐かしく思い出がよみがえってきます。

続いて「夜空のむこう」「千の風になって」の曲が流れていた。土曜日の早朝散歩、しかも晴天で気持ちよく歩くことができた。白髭神社の靖国遥拝所から遠く靖国神社を遥拝する。

孫が靖国のそばの女子学園に通学するようになり、今日も元気で暮らせよと呼びかける。でも今日は土曜日です。江東区の自宅で過ごしているか塾へ通うかもしれない。さて、朝から音楽を聴いているといい気分になった。「千の風になって」は妻はベットの中で聴いていたという。

♪「夜空のむこう

あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…
夜空のむこうには 明日がもう待っている Woo…

誰かの声に気づき ぼくらは身をひそめた
公園のフェンス越しに 夜の風が吹いた

君が何か伝えようと にぎり返したその手は
ぼくの心のやわらかい場所を 今でもまだしめつける

あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…
マドをそっと開けてみる 冬の風のにおいがした
悲しみっていつかは 消えてしまうものなのかなぁ…
タメ息は少しだけ 白く残ってすぐ消えた

歩き出すことさえも いちいちためらうくせに
つまらない常識など つぶせると思ってた

君に話した言葉は どれだけ残っているの?
ぼくの心のいちばん奥で から回りしつづける

あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ…
全てが思うほど うまくはいかないみたいだ
このままどこまでも 日々は続いていくのかなぁ…
雲のない星空が マドのむこうにつづいてる
あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…
夜空のむこうには もう明日が待っている Woo……

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キレる子どもの暴力とネットいじめ

6時20分の気温は10.8度で湿度は94%でした。風速1.4m~3.5mです。昨日の旅の疲れが残っていて今朝はゆっくりと公園を歩いた。ラジオから東京放送児童合唱団の「冬景色」、いきものがたりの「プラネタリウム」という曲が流れていた。

さて、きょう11月28日は大安で国道1号線沿いにコジマとエイデンが同時オープンした。家内と行ってホットプレートを買ったのみ。二つの店が同時にオープンし国道1号線はノロノロ運転で混雑した。店内はオープン特価で大変な人出だった。いづれも自宅から車で5分~10分ほどですがきょうばかりは渋滞で進まず、結局、近くのスーパーに車を置いて歩いた。

安いオープン価格のパソコンを買おうと徹夜して並んだ人もいたようだ。若いころは徹夜も苦にならなかったが、さすがこのトシになると無謀なことはできない。34.800円のパソコン。5980円のDVDビデオカメラ。でっかい家電チラシにはこういった数字が踊っている。なにも無理して買うこともないし生活苦の現状ではじっとガマンするしかないのです。

さて最近はささいなことでキレる子どもがふえて学校も対策に困っているようだ。「子どもの暴力」に学校が悩んでいるという。学校の器物損壊が増加し生徒間暴力も増えているのです。また特定の生徒が特定の生徒に暴力を繰り返す傾向があるようだ。パソコンや携帯電話で中傷や嫌なことをされるというネットいじめが特に増えているらしい。もはや学校だけの対策では解決が難しくなってきたようだ。

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四季桜と紅葉の名所ハイキング

朝から曇天でした。ラジオ体操は家で一人でする。ラジオを聴いていると田中誠二の「大きな古時計」と薬師丸ひろ子の「時代」が流れていた。朝8時から愛知県豊田市小原までバスハイキングにでかけた。小原の四季桜は、その昔、ひとりの医師が名古屋方面で苗を求め植えたのが最初で親木となり広まったと言われています。春と秋に花を咲かせるのです。もう見ごろは過ぎていたが満開の桜と真赤に染まった紅葉がとても美しかった。王滝渓谷の登山道を途中まで登ったが急な坂道で大変だった。みんな頂上まで登ったが僕は腰痛の妻をつれていたので途中で断念した。

♪「時代

今はこんなに悲しくて
涙もかれ果てて
もう二度と笑顔には
なれそうもないけど

そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから 今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
まわるまわるよ 時代はまわる
喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも
生まれ変わってめぐりあうよ

旅を続ける人々は
いつか故郷に出会う日を
たとえ今夜は倒れても
きっと信じてドアを出る
たとえ今日は果てしもなく
冷たい雨が降っていても
めぐるめぐるよ 時代はめぐる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ

まわるまわるよ 時代はまわる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ

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ならぬ堪忍するが堪忍

5時26分の気温は5.6度でした。いつものように暗い公園をラジオ片手に歩いた。東京少年少女合唱団の「港」や永井真理子の「YOU AND I」という曲が流れていた。ラジオ体操は37名が集まった。

きのうの朝は5時47分で8.6度もあった。タンポポ児童合唱団の「森のくまさん」や小田和正の「今日もどこかで」が聴こえていた。その前の朝は5時32分で4.4度だった。そして歌はタンポポ児童合唱団の「とんび」、山田パンダの「風の街」が流れていた。

早朝の公園を歩き、朝の気温を調べたりラジオから流れる音楽を聞き逃さないようにメモる。暗いところでメモることはちょっと大変です。土・日の女子アナはなぜか1回しか曲名を言ってくれない。そのために聞き逃したこともある。月曜日~金曜日までの女子アナは曲が終わるとまた親切に曲名を言ってくれる。同じNHKの女子アナでこうも違うものだろうか。

11月15日土曜日、5時の気温は12.6度もあった。「埴生の宿」、渡辺真知子の「迷い道」が聴くことが出来た。11月14日金曜日は5時7分現在で8.7度の気温でした。そして土居裕子の「旅愁」、山口百恵の「秋桜」の曲が流れていた。

気温を調べたり早朝の音楽を聴きながら公園を散歩する毎日ですが土・日はどうしても曲名が把握できないことがある。土日の女子アナはなぜ1回きりにするのかと思ったがやはり人それぞれのタイプがあるから、文句を言うほうがどうかしているかもしれない。どんなときでも1回で聞き取れる訓練をすべきだろうか。

渡辺真知子 「迷い道」 歌詞

現在・過去・未来 あの人に逢ったなら
わたしはいつまでも待っていると誰か伝えて
まるで喜劇じゃないの ひとりでいい気になって
冷めかけたあの人に 意地をはってたなんて
ひとつ曲がり角 ひとつまちがえて 迷い道くねくね

今さらカードに 愛の奇跡求めて
いかさま占いは続く スペードをハートに
あれからどうしてるの いまごろどこにいるの
ひとりのままでいると 噂できいたけれど
ひとつ曲がり角 ひとつまちがえて 迷い道くねくね

捨ててしまったわ 昔のプライドなんて
もしも許されるものなら きっと生まれかわる
まるで喜劇じゃないの ひとりでいい気になって
扉をあけているの 今もあなたのために
ひとつ曲がり角 ひとつまちがえて 迷い道くねくね

coldsweats01さて、朝日新聞の天声人語に「堪忍のなる堪忍は誰もするならぬ堪忍するが堪忍」は、人生訓をうたう道歌の中でもよく知られている。その教えが昨今はあやうい。誰もするはずの堪忍さえできず、ささいなことで堪忍袋の緒を切らす人が、世代を問わずに増えているようだ。

10年前から急に増えた。そして文部科学省の調べでは子どもの暴力に手を焼く学校も出てきたという。小学生で机を投げる子どもや、はさみで同級生の背中を刺す子ども、中学生ではすれ違いざまに肩がぶつかってけんかになったりするそうです。今こそ子どもも大人も「ならぬ堪忍するが堪忍」が大事だと思う。

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ヤフー波乱万丈物語

「なぜYahoo!は最強のブランドなのか」というカレン・エンジェルの著書を読んでいる。この本のはじめに「小さな机の前に座り、何百冊もの書籍と格闘しながら長い論文を書くという、恐ろしく骨の折れる作業を目の前にすると、人間というものは、ついほかのことに注意が奪われてしまうものだ」と書かれていた。これはヤフーの波乱万丈物語でもある。

台湾出身のジェリー・ヤンとアメリカ南部出身のデビット・ファイロは、スタンフォード大学院の電子工学科で博士課程を修了しょうとしていた矢先、ふとしたものに注意を奪われてしまった。彼らが夢中になったのは、インターネットである。これがやがて世界中に広く知れわたって大成功を収めることになる「ヤフー」の始まりだった。

2人は大学キャンパス内に設置されたトレイラー(移動式住宅)から会社を立ち上げ、その小さな会社をインターネットのトップ企業にまで大きくして巨万の富を得たのです。このように博士論文も仕上げる時間もない「落ちこぼれの大学院生」から始まり2人の仕事場はトレレイラーの中でした。

やがてネットバブルが崩壊し彼らは一転して世間から非難の集中砲火を浴びるようになる。傲慢な態度、内輪もめ、そしてマネジメントの失策が優良ネット企業ヤフーを狂わせたと批判されるようになる。ヤフーは現在、ふたたび従来の人気を取り戻すべく努力しているのです。これからも夢と希望をもたらしてくれることを期待したいものである。

この本の中身は第1章1994発端、第2章1995共感、第3章1996公開、第4章1997躍進、第5章1998伝道、第6章1996-1998戦争、第7章1999絶頂、第8章2000崩壊、第9章2001彷徨、第10章2001~未来となっている。読んでいるとだんだん興味がわいてくる。落ちこぼれの大学院生から始まったヤフーは今、必死の巻き返しを図っている。

台湾出身のヤンは父を亡くしたのをきっかけに英語教師の母に連れられて8才のときに弟とともにカリフォルニア州サンノセ゛に移住している。高校では生徒会長だった。カリフォルニア大学バークレー校に合格したがたまたま近所にあったスタンフオード大学の電子工学に入学したという。

僕の長男が1988年から1990年までカリフォルニア大学バークレー校で客員研究員としてLSICADの研究に携わっていた。今も毎月、アメリカなど世界の学会に参加している。スタンフオード大学での学会に参加した息子からお土産にこの大学のマークとORGANIZED1891の文字が入ったパソコンマットをもらったことがあった。今もそのマットを使っている。この大学はサンフランシスコから60km南東にある有名私大です。

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小中学生の携帯電話依存

今日は振替休日ですが午後から予報通り雨になった。5時32分現在の気温は4.4度、湿度は96%で晴天で夜空には三日月と星が輝いていた。ラジオ体操は40名が参加していた。今朝もラジオを聴きながら散歩する。山田パンダの「風の街」という曲が流れていた。

朝食後、テレビで「小中学生に携帯電話が本当に必要かどうか」という特別番組をやっていた。携帯電話がなくなったら発狂しちゃうこわさがあるという。ではどうしたらよいか?「携帯依存へ便利さの裏に潜む危険、破綻を京大の正高信男教授が調査していた。

yahooリサーチの調べによると携帯電話を持ち歩かないと不安という人が80.9%もいた。携帯依存である。とても不安、やや不安、不安でない人、食事中でもメールをする人もいます。メールは一日15時間くらい500通くらいやりとりしている。寝ないでメールで夜を明かしたときはやばい。でもちよっと達成感はあるという。

携帯電話依存症になると食事中もメールをしている。歩いているときあれいま震えたかなって?見ると何も来ていなかったりすることが最近結構ある人は依存症という病気かなと思う。ちょっといま行き過ぎているかなと思ったり、携帯依存なのかなって感じる人も結構いるようです。僕も最近、ちよっとブログにはまっているので気をつけたいと反省している。

すごい不安感で興奮が起こるくらい多くの時間を携帯に耽溺する状態になると日常生活にかなり支障が起こることになる。これがいわゆる依存症である。携帯依存が招くトラブルに出会い系サイトトラブルがある。

出会い系サイトに登録して請求書が来るようになると大変です。全国webカウンセリング協議会の小嶋圭子さんの話では見るだけで子どもを悪質な方へ誘導するという。大麻の栽培、タバコ、麻薬、クスリを始めるようになったりする。携帯についていろんな対策取られてきたが、結局はいたちごっこの部分があるという。

携帯依存とは①片ときも携帯を手放さない②メールが終わらない③利き手と逆の手でメールする④圏外になるとパニック。そして携帯依存対策はフィルタリングサービスだという。石川県石川郡野々市町中学校の北村俊一校長は授業中に携帯電話の着信音が鳴ることがあった。当時は本当に野放し状態でどうしていいかわからなかった」という。

便利でもいずれキバをむく子どもの携帯である。ののいちっこさ育てる町民会議の山本邦雄事務局の話では、「携帯電話が本当に小中学生に必要か親の問題として考えてもらいたかった」と話していた。そして町ぐるみでやっていくこと。持たせないこと。少なくとも保護者にはこんな用語使っていると知っておいてほしい。中学生の携帯電話所持率は22%から10%に減ったという。子育て支援団体情報ののいちっ子を育てる町民会議のホームページを調べてみた。

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懐かしい神田川

朝日新聞のbe on Saturday欄にかぐや姫「神田川」の歌詞が載った。喜多條忠作詞、南こうせつ作曲である。神田川は僕にとっては隅田川に次ぐ好きな川です。井の頭公園から隅田川に流れていて全体図を見るとわかるが善通寺川は支流になっている。決してきれいな川ではないが多摩川や荒川より僕は好きです。練馬の豊玉北に住んでいたときに自転車に乗って神田川に沿って走ったことがありました。僕にとっては懐かしい神田川です。
              ♪神田川
                                          作詩 喜多条忠
                                          作曲 南こうせつ
貴方はもう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーにして
二人で行った横町の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸カタカタ鳴った 貴方は私の体を抱いて
冷たいねって言ったのよ
若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方の優しさが恐かった

貴方はもう捨てたのかしら 二十四色のクレパス買って
貴方が描いた私の似顔絵 うまく描いてねって言ったのに
いつもちっとも似てないの 窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿 貴方は私の指先見つめ
悲しいかいって聞いたのよ
若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方の優しさが恐かった

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女子高生プロ野球選手誕生

史上初の女子高生プロ野球選手誕生をテレビが報じていた。吉田えり投手(16)に元プロ野球選手の宮本がインタビューしていた。ナックルボール(右下手投げ)の横浜市都筑区に住む、神奈川県立川崎北高2年の吉田えり(16)という高校生である。

ナックルボールとはどんな曲がり方落ち方をするか予測できない。キヤチャーも受けるのも大変な魔球だという。日本人プロ野球選手でナックルボールを投げるのは中日から巨人に移籍したあの前田幸長ぐらいである。ボールに爪を立ててはじき出すようにして投げる。投げた本人にもどこへ行くかが解らず、キャッチャーも捕るのに苦労するという。

ナックルボールの使い手として有名なウェークフィールド投手を見てこれなら力のない私でもやっていけるかもしれないと思ってやるようになったと言う。ウェークフィールド投手も吉田えりにエールを送った。神戸9クルーズっていうチームで来年4月から年俸180万円、月収20万円で就職が決まっている。チームの監督は元阪神の中田良弘氏。彼女は楽天のまーくんが憧れの選手という。

来年には早々に関西の方に行くという。私は全然平気なんですけどお母さんお父さんが泣いちゃうじゃないかなと言う。あっち行っていっぱい遊んじゃおうかなって思ってるんです。とあっけらかんな現代っ子らしい発言。中田監督のことを聞くと「監督はイケメンなんですね」と答えていた。

宮本がプロ野球選手ですから言動発言には気をつけてくださいねと忠告すると「いっぱいいいプレーを見せたいですね。なによりも魅せる野球をしたい」と語っていた。どうやら宮本が元プロ野球選手だということがわからないようだ。宮本和知はプロ13年で66勝を挙げた巨人のエースだった。宮本が「温かい幸せな家庭ができるかな」と言うと「関西行くんで美味しいご飯連れて行ってください」と笑っていた。

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岸部四郎の波乱万丈人生

yacht岸部四郎の波乱万丈をテレビがやっていた。でているコマーシャルも彼が公園のベンチに腰掛けてケータイ電話に何かをつぶやいているところへ小さな子どもが見にゆく。子どものお母さんがあわてて子どもの手をとって岸部から離れさそうとする。あのコマーシャルは笑えてくるし今のあわれな岸部らしいところがでていてなんともいえない雰囲気です。
sign02その彼がミヤネ屋に生出演した。宮根が「岸部さん最近はよくブレークしていますなあ」と言うと岸部は「なにもそれほどブレークしてませんがな」ととぼける。 さらに宮根が「もう目はよろしいか?」と聞くと「ええことない。もう目が見えへんのや」と答えた。宮根が「見えないことないじゃないですか。今こちらに向いて歩いてきたのに」と言った。こんな応答ぶりが今の岸部のすべてを物語っているように思えた。
happy01岸部は1969年(当時20)ザ・タイガース入りした。当初のポジションはギターだったが、実際には弾けず、ステージでは弾く真似をしていたそうです。その後、タンプリンを演奏し人気が爆発。一躍スターダムにのし上がったのだった。1971年(当時22) ザ・タイガース解散してからも岸部の人気は衰えず、ステージの司会や、当時ブームとなった青春ドラマ等のタレントとして大活躍した。
happy021978年(当時29) 西遊記出演し俳優としての地位を確立。1984年(当時35)「ルックルックこんにちは」の司会になる。こんなころが岸部四郎の絶頂期だった。当時1億2000万円の豪邸に住むような大金持ちになり高級車、家財道具などに4000万円を費やし合計1億6000万円の大金を費やしていた。
enterしかし生来が貯金が苦手なうえに、他人の借金の連帯保証人を次々に引き受けたことや、事業に手を出して失敗し借金が雪だるま式に増えてしまい約20億円の借金となり自己破産したのです。そして1998年4月「ルックルックこんにちは」を降板することになった。
そんな岸部に突然の不幸がやってきた。妻から別れてくださいと「離婚届」をだされたのです。
snowboard豪邸など総てを慰謝料で差出し全財産放出したのだった。実は慰謝料総額1億6000万円と月々の養育費は120万円だった。骨董のコレクションに傾倒しこれが破産の大きな原因と言われている。でも神は岸部四郎を見捨てなかった。 自己破産以降、そのことを自虐的な売りにして、バラエティ番組に出演することが多くなったのです。
その後、再婚の妻が心臓発作により43才の若さで急死する。そして患った脳内出血の影響で右目の視野が3分の1しかない視野狭窄という目の病になる。僕も彼のブログ「岸部四郎の四郎マンション」を読んでいる。波乱万丈の半生を生きぬいてきた彼に拍手をおくりたい。

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恋人の聖地に思うこと

恋人の聖地(現在66ヵ所)をテレビで見ました。これは恋人達が訪れ結ばれる事での地域活性化と少子化対策が目標とのこと。名古屋のシンボル「テレビ塔」は名古屋全体が見わたせて夕日、夜景がピッタリだという。六本木ヒルズ展望台も選定されている。僕は07年8月2日に1500円出してヒルズ展望台にのぼったが都庁の展望台は無料でのぼれるし眺めも良いし記念品だって売られている。名古屋のテレビ塔は昔、名古屋で勤務していたときにのぼったことがあるが夜景は実によかった。

愛知県は恋路ケ浜、三重県は神島、岐阜県は花フェスタ記念公園、伊吹山ドライブウェイが恋人の聖地だという。提唱者はフアッションデザイナー桂由美さんだそうである。この恋人の聖地とは、地域活性化支援センターが主催するプロジェクト、およびプロジェクトが2006年4月19日に選定・発表したデートスポットとなっている。自然に囲まれた場所、夜景の綺麗な場所、記念品が作られる場所などが選定されたらしい。

三重県の神島(かみしま)は鳥羽港の北東約14km、愛知県伊良湖岬の西方約3.5kmの伊勢湾口に位置し、島内は標高171mの灯明山を中心に島全体が山地となっており、平坦地は少ない。三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となったことで有名となりました。恋人の聖地にふさわしいと思うが僕は三重県にいながら神島に行ったことがない。でも四日市南部丘陵公園から遠く南方に神島を眺めることができるのです。

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想い出の散歩道

好きな散歩道では大阪府吹田市にいたとき僕は円山町にいたから関西大学までの桜並木をよく散歩した。あのあたり今はどうなっているかわからないが車も通らず下り坂だったが帰りは坂を上るのも若かったからあまり苦にならなかった。関大のキャンパスをぶらついて帰ってくるとちょうどいい散歩コースだった。

僕が兵庫県西宮市甲東園の住人のころは直木賞作家の藤本義一さん宅前を通って関西学院大学のキャンパスや甲山までよく散歩していた。関学の中には浅い川も流れていた。関学から門戸厄神、神戸女学院大前までの散歩も楽しみコースだった。

東京練馬区にいたころは豊玉北の環七通りや目白通りに近いところに住んでいたから武蔵大学から江古田の武蔵野音大のあたりまではよく散歩した。そのころ江古田には日大芸術学部もあって学生の多い街でした。江古田に歌手の三波春夫さんの豪邸があり、その前を歩いたこともあった。

東京都目黒区碑文谷にいたころは柿の木坂から都立大学駅~自由が丘まで足を伸ばしたり、王貞治氏や原辰徳監督の自宅近くまで散歩したこともある。当時は駒沢オリンピック公園でラジオ体操をしていた。中目黒のほうにも歩いたし、碑文谷のサルジオ教会から円融寺まではよく歩いたものです。

横浜市港北区に住んでいたころは東急東横線の日吉駅から慶大理工学部キャンパスや反対側の慶大野球部のグランド裏にある緑道をよく散策したものです。当時、慶大生・高橋由伸くんの練習風景が見られた。あの緑道には色とりどりの植物が植えてあって歩きながら観察するのが楽しみだった。

墨田区の両国にいたときは京葉道路を歩いて錦糸町や亀戸へ。さらに両国橋を渡って浅草方面へと歩いたり隅田公園を散策したりした。江東区千石町に移ると僕は四ツ目通りを抜けて木場公園を散歩したり横十間川親水公園を散歩することが多かった。

最近は四日市の南部丘陵公園は毎朝、ラジオ体操にでかける。体操の前後に公園を散歩するのが日課になった。丘陵公園からの眺めは西に鈴鹿山脈の山々が東は伊勢湾やセントレア空港がよく見えるのです。冬の夜景が素晴らしい。(写真は南部丘陵公園北部ゾーン)

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♪やさしい赤

5時24分の気温は9.3度で湿度は84%でした。今朝も暗い公園をラジオを片手に歩いた。ラジオから芹洋子の「りんごのひとりごと」、福原美穂の「やさしい赤」という曲が聞こえていた。いい曲だと思う。

『やさしい赤』 歌詞

愛してるよ だから捨てる
優しい場所も 君の声も

東京の空は 落ちてくるほど近すぎるけど
青空もあるよ 新しい友達もできたよ

行かなきゃ 行かなきゃ 描いた未来へ
私はここで 精一杯生きていく

変わらない空 変わり行く雲
私はここで動けずにいた
だからさよなら だから捨てる
優しい場所も 君の声も

笑って・・・。

置き去りになった錆びたポストは 時を失くして
「届かないかも・・」と、 手紙は入れられなかったよ

行かなきゃ 行かなきゃ 離れたくないよ
振り払う 心 君が見えなくなる

泣いてる顔も 笑った日々も
私は全部大切だよ

だけど忘れて 全部捨てる
優しい場所も 君の声も

水平線に伸びる夕陽
すべてを赤く染める優しい色
大丈夫、歩いていける・・。
泣かずに歩いていけるよ

変わらない空 変わり行く雲
私はここで動き出すよ
もしこの歌が 届いたなら
泣き顔じゃなく 笑顔を想って。

ママの涙と パパの叫び
君の笑顔も 赤い空も
冷たい冬も 錆びたポストも
私は全部、、大好きだよ。

ありがとう ありがとう
ありがとう ありがとう・・

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博士就職とホームレス中学生

朝5時50分の気温は10.3度で湿度は94%もあり、公園は暗かったがもうこの時間帯では散歩する人が多い。大体はいつも出会う人たちです。ラジオから木山裕策の「ありがとう」の曲が流れていた。いつもありがとうという心がけで毎日を過ごしたいものです。

朝食のときテレビが今は博士号をとっても将来が見えない。人生設計ができないという話をしていた。博士になっても厳しい試験があるという。大学院で博士コースを出て博士になっても就職できない時代である。

研究内容が生かせる会社がないとみじめなものである。たとえ就職しても無能な上司がうろうろしている。そんな上司に仕えるのはたまらず結局退職することになる。博士になる人の大多数は東大卒でそれ以外の人が満足に一生研究畑で過ごせる所はそうはないのです。

昼食のときにNHKの「スタジオパークからこんにちは」を見た。 壮絶ホームレス中学生の強運な人生物語です。麒麟の田村裕が中学の夏休みに帰宅すると家は差し押さえられていた。 父は、「はい解散」と言ったなりどこかえ行ってしまった。

13歳のときに突然住む家を無くし、近所の公園に一人住むようになった。彼はのちに「ホームレス中学生」という本をだした。ダンボールで飢えを凌いだり、ハトのエサであるパンくずを拾い集めた日々だった。いつも見守ってくれた亡き母への想いが詰まった貧乏自叙伝である。

田村は「不幸は財産」という。彼の自伝とも言われている「ホームレス中学生」を僕はまだ読んでいない。執筆中は仕事が17~24時に終わり、主な執筆場所はホテルアイビス六本木で3~4時まで書いていたと言われている。この本は印税や税金を差し引かれ田村の手元に残ったのは8千万円といわれている。

昔は末は博士か大臣かと言われた時代もあった。今は博士になっても満足に食っていけないし大臣になっても世間から非難を浴びて辞職に追い込まれる大臣もいた。田村のようにホームレスしても「不幸は財産」と考える。その考え方こそ大切だと思った。今日は朝と昼といい話を聞いた。

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最期の東京国際女子マラソン

最期の東京女子マラソン をテレビで見ていた。国立競技場→大森海岸交番前の折り返し42.195kmで行われた。有森、高橋、野口らが駆け抜けた栄光の道であるが来年から舞台は横浜へ移るそうだ。伝統のレース東京最後の女王に輝いたのは尾崎好美だった。

北京で1万メートルに出場するなど、復調の兆しのある前日本記録保持者の渋井陽子、ハーフマラソン2連勝と好調の加納由理、08年名古屋2位の尾崎好美、北京6位のマーラ・ヤマウチ(英国)海外の強豪らが出場した。

渋井陽子はスタートからレースをけん引していた。渋井は12km付近から飛び出し独走状態だった。17km過ぎで加納由理が単独2位になった。このまま渋井が優勝するかに見えたが37km付近から尾崎と加納が渋井を視界にとらえた。その距離がみるみるうちに狭まった。

そして尾崎は3位から魔の坂道の38km過ぎに一挙に2位加納由里、1位渋井陽子を抜いてトップになりそのまま国立競技場に入り堂々と逆転優勝したのです。高橋尚子、土佐礼子、野口みずきの時代は終わって、12年ロンドン五輪に向け、新たな4年がいよいよ始まる。それにしても東京から横浜へどうして変わるのだろうか。

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精神の旅を見つける小椋桂の世界

今朝は「アーカイブス 小椋桂の世界」を見た。NHKアーカイブスは埼玉県川口市あり過去に放送された番組や関係資料が全部ここに保管されているのです。その中からシンガーソングライター小椋佳を取り上げた番組を2本特集でやっていたのです。

NHK特集「小椋佳の世界」(1976年11月放送)は、その当時まだ銀行員だった小椋佳が同年10月に東京NHKホールで初のコンサートを開くまでをやっていた。小椋佳の本名は神田 紘爾。彼は血糖値が高く57才で胃がんを摘出した。それから糖尿病も治ったという。そして49才で第一勧業銀行を早期退職した。まさに人生の転機だったと回顧する。

コンサートで歌った曲は「しおさいの詩」「六月の雨」「俺たちの旅」「少しは私に愛を下さい」「思い込み」「揺れるまなざし」「白い一日」「遠きにありて」「シクラメンのかほり」「さらば青春」「愛燦燦」など。初のコンサートで味わった感動、銀行員とシンガソングライターをアーカーバイスで見られるのもNHKならではである。小椋は当分コンサートはやらないという。初のコンサートで味わった感動を大切に「出会い」に支えられて新しい旅、精神の旅をみつけたいと言う。

BSスペシャル「父と子の夢追い日記 小椋佳と次男宏司」(1998年6月放送)は中学生の時に脳梗塞(こうそく)で倒れた次男・宏司くんと小椋佳が、楽器の琵琶を通して親子のきずなを深める姿を伝えていた。

彼は東京広尾で妻のかほりさんと二人暮らし。曲名の「シクラメンのかほり」は奥さんの名前「かほり」からとったと明かした。次男の宏司くん(25才)は埼玉県坂戸市の石田琵琶工房で琵琶を作っている。宏司くんは原因不明の脳梗塞で昭和62年7月に倒れ高校を1年で退学。

息子のために親としてどんなレールを敷いてやればいいか彼は50才を前に銀行を辞めて宏司くんと琵琶を始める。自分の生きる道を失っていた宏司くんは琵琶は無言の音が出ると琵琶作りに熱中していく。そして料理も自分でするようになった。

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かあさんの下駄

今朝5時7分の気温は8.7度でした。宵の満月が輝いて公園は明るくこの時間帯、散歩人数人とすれちがった。濱中アナと遠田恵子キャスターの「あさいちばん」を聴きながら広い丘陵公園を歩く。特に音楽が好きで今朝はどんな曲が聴こえてくるか楽しみです。

最近は芹洋子の「この道」、「白い想い出」、中村ブンの「母さんの下駄」、八重の「ゆら揺れて」、佐野元春のサムデー(Someday)、山口百恵の秋桜(コスモス)、土居裕子の「旅愁」、小鳩くるみの「夢路より」を聴いた。「母さんの下駄」の歌詞を調べてみた。中村ブンのホームページにお爺ちゃんお婆ちゃんへの応援歌がある。

人に話すような事ではないのですけど、私は小学生の頃、早く大人になって、父や母にラクをさせたいと、本気で思っていました。母は、病弱な父と三人の子どもの事だけを考えて、いつも裸電球に風呂敷を下げて、朝方まで縫い物の内職をしていました。でも、働いても働いてもそのお金は、みんな病院に消えました。(中村ブンのHPより)

         『かあさんの下駄』の歌詞

世界中で一番きらいなものは かあさんの怒った顔
世界中で一番うれしいのは かあさんの笑った顔
世界中で一番つらいのは かあさんの泣いた顔

隣のおばさんと出かける時も 父兄会で学校へ行く時も
かあさんはいつもすりへった男ものの下駄をはいて行った
「これしかないんだから仕方ない」って
大きな声で笑ってたけど
ぼくにはどうしてもかあさんのように
笑うことができなかった

新聞紙に包んだ新しい下駄を 両手にかかえて息をきらして
「ただいま」ってえばって戸を開けたら かあさんは今日も内職してた
「かあさんこれ・・・」って包みを渡したら
「何だい」って少し頭をかしげた
「いいから早く開けてみてよ ぼくのプレゼントだよ」

包みを開けるとかあさんは こわい顔してぼくに言った
「お前これどうしたの この下駄どこからもって来たの
いくら貧乏してても人様の物に
手をかけるような子に育てたおぼえはないよ
情けない・・・」って ふるえながら 下駄とぼくをにらんでた

「違うよかあさんぼく買ったんだよ」
「嘘をつきなさい お前に どうしてそんなお金があるの
小遣いだってあげたことないのに」
「弁当代ってもらう中から毎日五円づつためてたんだよ
タコ糸に通してずっと前から ためてたんだよ」

「赤い鼻緒の下駄を買いたくて かあさんをびっくりさせたくて
内緒にしていただけなんだ 悪いことなんかぼくしてないよ」
下駄を包んだ新聞紙の上に 大きなしずくがボトボト落ちた
「悪かったね」って言って子供のぼくに 何度も何度も頭を下げた
「すまなかったね」って も一度言ってあとは言葉にならなかった

ぼくが初めて 生まれて初めてかあさんの涙を見たのは
それは小学六年生の冬

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東京下町ぶらぶら歩き

生活ほっとモーニングというNHKの番組で「照英さんと行く東京下町大人の散歩」というタイトルでやっていた。東京谷中、根津、千駄木の下町ぶらぶら歩きだった。これを見ていて昔のことが懐かしく感じた。僕が東京練馬に住んでいたころ巣鴨駅前のアマチュア無線連盟まで単車でよく行ったものです。

bicycle巣鴨から駒込、六義園へ。本郷通りを走って不忍通りに出る。田端の文士村を経て西日暮里、千駄木の団子坂下、根津神社、不忍池、本郷の東大キャンパスへと何度も出かけたことがあった。大人の下町探検と書かれていた。

happy01テレビは蛍坂アパートとか朝倉彫朔館、谷中銀座商店街、王子街道の道標、文豪夏目漱石の愛した味、羽二重だんご、江戸千代紙、谷中の職人の技が紹介された。赤塚ベッ甲店、笑い上戸などは僕ははじめてでした。テレビでこうした下町ぶらぶら歩きをやってくれるのは本当に嬉しい。

annoy谷中銀座商店街は大商業まつりで大賑わい。照英さんが子ども3人が自転車で遊ぶ姿をカメラに収めた。ぶらぶら歩くといいものです。郵便新聞差入口の文字が右から書かれていて珍しく写真に収めていた。文豪、森鴎外や夏目漱石の愛した羽二重だんごは実に美味しそうだった。

book夏目漱石の「吾輩は猫である」の一節が紹介された。「団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食ったことがありますか。奥さん一辺行って食って御覧。柔らくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄辯を揮っているうちに主人はもう、、、、

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熊野古道へバスハイク

今朝6時10分の気温は7.1度、湿度は92%でした。昨日は世界遺産の熊野古道へバスハイクにでかけた。バス4台で入口まで行き180人の仲間と三木峠と羽後峠を登ったのです。現地はあいにくの曇天でした。でも三木峠展望台での昼食がとても美味しかった。

熊野古道は古い石畳があちらこちらに残っている。現在18のモデルコースが整備されていてそれほど急な坂道もなく杖があればらくらくと登れます。杖になる自然の枝が入口に落ちているから忘れてきても大丈夫。手ごろな杖と軍手、リユック、ズック靴で楽に登れます。

真新しい熊野古道センターを見学した。ここでは古道のことが何もわからないという人のために展示でわかりやすく説明している。でも、こんな贅沢な建物はいらない。三重県立だから、われわれの血税をこんなところにムダに使わないでほしいと思った。見学者が少なく映画は誰も見てないのに映像が勝手に流れていた。大変なムダ遣いしていると思った。

熊野古道の見どころは猪垣です。猪の来襲を避けるために作られた見事な猪垣が見られる。スタートの所に三木峠案内板がある。ここから展望台までは誰でも簡単に登れる。僕は入口で格好の杖になる木の枝をひろってそれで楽に登れた。三木峠と羽後峠を結ぶ古道がある。この二つの峠の間は農道で分断され、地域の方々やボランティアの皆さんによる掘り起こしが進められ整備されたのです。

三木峠を降りて農道に出たら農道を歩かず、道標と、のぼりを目印に道路反対側の古道を進みます。ジグザクに民家の間を通りぬけ、国道311号「フリー新開地バス停」脇に合流します。「ここは古江町です」の看板の手前で、道標に従い再び古道に入ります。その後は「羽後峠登り口」の道標に沿って進みます。僕は3年ほど前に馬込峠へ登ったことがあるが三木峠、羽後峠も初心者コースです。

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こんな大学の博士号なんかいらない

アダムスミス大学とはいったいアメリカのどこにあってどんな大学だろうか。私はこの大学名をはじめて知った。ところがテレビでよく顔がでる有限会社日本音響研究所長の鈴木松美氏のプロフィールにアダムスミス大学教授とか理学博士とか書いてあった。どんな大学だろうか。

彼のプロフイールに近畿大学理工学部を卒業しアダムスミス大学理学研究科 法学研究科 心理学研究科を卒業し、理学博士、法学博士、心理学博士を取得したとある。専門は音声科学となっている。よくよく調べているとよその認定大学で既に行った業績の評価、生活経験と自習に基づいて学位が授与されると書いてあった。

やたらと博士号を自分の著書や名刺なんかにつける人もいます。自分の著書を売ろうとする気持ちはよくわかるが普通人がそんなことしたらすぐばれる。鈴木氏はテレビで顔が知れている人。こんな大学の博士号を書かないほうが彼の品格のためにもいいかと思うがどうだろうか。

学歴詐称でとうとう国会議員を辞職した人もいた。古賀潤一郎氏は米ペパーダイン大を卒業したとの学歴を公表し初当選直後に、学歴詐称の疑いが浮上し、卒業していなかった事実が判明した。簡単に手にはいる博士号よりもこつこつと長年、研究されたことを学会で発表して博士号を取得したほうがよさそうです。

参院選に当選した新間正次氏が、入学していない明治大に入学したように選挙公報に記載し、公選法違反が確定、失職した事例もあった。 海外の大学ならどんな大学か一般人にはよくわからいことをいいことに選挙に利用するとはもってのほかである。どういう神経だろうか。アダムスミス大学のこと調べてみているうちに、こんな大学の博士号なんか自分だったらいらないと思った。

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切手のないおくりもの

postoffice朝の公園散歩のときに「切手のないおくりもの」という曲がラジオから流れていた。帰宅してこの歌詞をしらべてみる。年老いた自分にあの人から届いた歌だと思ってじっと聴いてみる。何度も聴いているうちにとても好きになってきた。

sprinkle朝の気温は5時30分現在、12.3度だった。細かい雨が降り出してきてラジオ体操は家に帰って一人でする。午後も少し公園へでかけた。午後3時30分の気温は13.2度で意外にも湿度は66%で風速3.9mでした。風速があるぶん湿度は低くなるのかもしれない。

♪切手のないおくりもの 歌詞

私からあなたへ
この歌をとどけよう
広い世界にたった一人の
わたしの好きなあなたへ

年老いたあなたへ
この歌をとどけよう
心やさしく育ててくれた
お礼がわりにこの歌を

夢のないあなたへ
この歌をとどけよう
愛することの喜びを知る
魔法(まほう)じかけのこの歌を

知りあえたあなたに
この歌をとどけよう
今後よろしくお願いします
名刺(めいし)がわりにこの歌を

別れゆくあなたに
この歌をとどけよう
淋(さび)しい時に歌ってほしい
遠い空からこの歌を

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小3男児が3km運転

岐阜県大垣市の小学3年の男児(9才)が祖父の軽乗用車を一人で運転し、自宅から約3キロ離れた岐阜県養老町の警察に保護されていたことが去る6日わかった。車はAT車(自動変速機)で、男児は「お父さんの運転やゲームセンターのゲームを見て運転を覚えた」と話しているという。
このニュースはテレビで報じられるやあっという間に茶の間の話題として広まった。なにしろ事故もなく、笑い話として明るく伝わったようだ。そりゃ子どもだから、どんな運転をしていたのか興味がないといけばウソになるし、危なかったが何事もなくてよかった。ほっとした笑い話になったようです。ネットの掲示板にもいろいろと書かれたが一様に、事故にならなくてよかった親御さんやおじいちゃんも気をつけてやと言う程度だった。保護した警察もびっくりしたことだろう。
車の運転がどれだけ危険か、9歳では理解できてないかもしれない。僕にも3Kmほどはなれた団地に小3の男孫がいるので、このニュースは孫とダブってみえた。うちの孫だったらそんなことはようしないと思った。親が平素から言い聞かしているからだ。テレビではみんな笑って話をしていたが決して笑ってすまされることでもない。今回は休日の早朝で車も少なかったのが幸いしたようです。笑い話ですんだが事故を起こしていたら大変なことになっていた。
男の子が保護されたコンビニの店長の話では普通にコンビニの駐車場に止まっていた。そしてお母さんと来たのと聞くと「そうだよ」って話していたという。よくよく追求していくと「自分の運転で来た」とポケットからキーを取り出したと言う。まあ、あっぱれというか、どんな家族だろうかと考えさせられた。
このニュースは今朝のテレビでまた報じられた。この道路は平日は交通量も多く養老橋は狭く、危険な道路という。けさのテレビは同型の車、ほぼ同じ身長138センチの男の子に乗ってもらって検証していた。実際に運転席から見ると前方は見えるが下方はほとんど見えない。
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月島、佃島1万歩ぶらり旅

おもいッきりイイテレビ で高木美保が月島、佃島かいわい散歩1万歩の旅をやっていた。高木はテレビでは見るがどんな人だろうか。東京葛飾区の出身で千葉県の和洋女子大を中退し1984年、映画『Wの悲劇』で女優としてデビュー。しかし女優業は自分に合わないと、コメンテーター、エッセイスト、タレント、に転向したと書かれていた。

その後、パニック障害の治療をかねて栃木県那須高原に移住。タレント活動をしながら農業を営み、農業体験をまとめたエッセー集も執筆している。未婚で本人曰く、男性への嗜好はかなりの面食らいとか。トレードマークとも言えるメガネをいつもかけている。

東京に住んでいた頃、大好きだったという月島を散歩していた。「ここのお煎餅屋さんに、よく買い物しに来てましたね!」と言いながら立ち寄っていた。また好きな「もんじゃ焼き」を食べていた。月島界隈はおいしい『もんじゃ』『鉄板焼き』『お好み焼』の店がいっぱいあります。僕はもんじゃ焼きよりお好み焼きのほうが好きです。

僕の孫娘が聖路加国際病院で生まれたとき、家内と月島で「もんじや焼き」を食べたことがある。食べにくく僕は大阪にいたとき食べたお好み焼きのほうが美味しかった。関西人はどうも「もんじゃ焼き」は口にあわないのです。

高木は那須の暮らしぶりを「木立のなかに引っ越しました」 というエッセイ集で書いている。この本は東京に住んでいた頃、大好きだったという月島を散歩していた高木美保のエッセイだ。彼女の芸能生活をまとめたVTRです。この本に那須高原に移住し農作業に励む彼女の写真がでてくる。
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肺炎は高齢者にとって怖い病気

今朝4時55分の気温は8度で湿度は94%でした。ラジオからチャゲ&飛鳥の大ヒット曲「if」が流れていた。ラジオ体操はやや減って40名が参加していた。さて、僕も77歳を過ぎてじりじりと目の前に死が迫ってきているのです。特にこれから寒くなる冬場は「インフルエンザ」と「肺炎」にならないようにしたい。とくに肺炎は高齢者にとって怖い病気です。

腎不全、肝機能障害や糖尿病のある人は症状が重くなったり、急速に症状が進んだ場合、抗生物質などによる治療が間にあわないこともあるという。主治医にすすめられて肺炎球菌ワクチンの接種を12月早々に受けることにした。医者に相談して早くインフルエンザと肺炎球菌ワクチンを受けておこう。

インフルエンザにかかることが、肺炎を起こす要因になるようです。インフルエンザワクチンと肺炎球菌ワクチンの両方のワクチンを接種することで、より高い肺炎予防効果が得られるという。両方のワクチンは1ヶ月あけて接種したほうがよいと主治医は言う。僕の場合は12月早々に受ければよいことがわかった。

ワクチンを接種しておくと、万が一肺炎にかかっても軽い症状で済む効果が期待されるのです。手を洗ったり、うがいをしたり、運動したり、日光浴したり、入浴することも大事なことです。特に後期高齢者は肺炎の感染症を予防したほうがよいのです。でも、この接種は保険がきかない。8000円はするそうですが効果は5年間は持つそうである。

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日本はシビリアンコントロールの国

5時20分の気温は11.9度、湿度は73%でした。ラジオから槙原啓之の「冬がはじまるよ」の曲が流れていた。ニュースは小室哲哉・音楽プロデューサーの5億円詐欺容疑で逮捕を報じていた。次に朝青龍のことをやっていた。僕は横綱がモンゴルから帰らずこのまま引退するように思えて仕方ない。そして、柔道で金メタルの石井がプロ格闘家に転向する声明をした。

つぎの話題はこれでした。政府見解に反する論文問題で航空幕僚長を更迭された田母神(たもがみ)俊雄氏が記者会見した。「国家国民のために信念に従って書いたことで断腸の思いです。日本は決して侵略国家ではない。日本は被害者」と改めて持論を展開した。「むしろこれを契機に政府の歴史認識は検証され活発な議論を願うものです」と彼は結んだ。

「日本はまさにシビリアンコントロールの国ですから大臣が適切でないと判断してやめろということならそれは当然のことと思う」そして政府の見解とかに一言も反論できないということでは北朝鮮と一緒と発言し国会への参考人招致に応じる考えを明らかにしたのである。防衛大出身らしい発言ですがこの人はもうひらきなおっているように思った。

午後2時から4時まで南部丘陵公園の市民壇で近くの市立泊山小学校4年生84名が公園のことについて総合学習発表会をするというので僕もでかけた。最後まで父兄席で見ていた。今日は晴天に恵まれてかなりの見学者です。近くの泊山幼稚園児たちも応援にきていた。ケーブルテレビ局が取材していた。夜、さっそく夏から続けてきた総合学習の成果をホームページ「私の散歩道」に写真入りで紹介した。P1010014s

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あのフランク永井がなくなった

5時28分の気温は12.7度で湿度は85%でした。ラジオから川田正子の「さざんか」や小田和正の「たしかなこと」という曲が流れていた。

たしかなこと」  作詞、作曲 小田和正 歌詞

雨上がりの空を見ていた 通り過ぎてゆく人の中で
哀しみは絶えないから 小さな幸せに 気づかないんだろ
時を越えて君を愛せるか ほんとうに君を守れるか
空を見て考えてた 君のために 今何ができるか
忘れないで どんな時も きっとそばにいるから
そのために僕らは この場所で
同じ風に吹かれて 同じ時を生きてるんだ
自分のこと大切にして 誰かのこと そっと想うみたいに
切ないとき ひとりでいないで 遠く 遠く離れていかないで
疑うより信じていたい たとえ心の傷は消えなくても
なくしたもの探しにいこう いつか いつの日か見つかるはず
いちばん大切なことは 特別なことではなく
ありふれた日々の中で 君を
今の気持ちのままで 見つめていること
君にまだ 言葉にして 伝えてないことがあるんだ
それは ずっと出会った日から 君を愛しているということ

君は空を見てるか 風の音を聞いているか
もう二度とここへは戻れない
でもそれを哀しいと 決して思わないで

いちばん大切なことは 特別なことではなく
ありふれた日々の中で 君を
今の気持ちのままで 見つめていること

忘れないで どんな時も きっとそばにいるから
そのために僕らは この場所で
同じ風に吹かれて 同じ時を生きてるんだ

どんな時も きっとそばにいるから
 
P1010004s さて、「有楽町で逢いましょう」「おまえに」「西銀座駅前」「夜霧の第二国道」などのムード歌謡で知られる歌手のフランク永井さんが10月27日、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去していたことが分かった。76歳だった。ささやくような甘い歌声は「低音の魅力」と評され、低音ブームを巻き起こした。フランクが中目黒に住んでいたことは僕の長男が中目黒に住みだしたときに知った。今では当時の住宅跡は雑草が生い茂って背丈ほどになっているらしい。
59年には故松尾和子さんとデュエットした「東京ナイト・クラブ」がヒット。61年、「君恋し」で日本レコード大賞を受賞した。77年の「おまえに」など、今なお多くの人々に愛唱されている。NHK紅白歌合戦には連続26回出場した。
85年10月に自殺を図り重体となるものの、一命をとりとめた。後遺症のリハビリに努めたが、歌手活動を再開させるには至らなかった。歌手のペギー葉山さんがテレビで「非常に残念です。いつもフランクのことは気になっていました。あの素敵な声で歌っていたフランクがいなくなったんだなんて、今しみじみ思います。
明るくて、いつもニコニコしていてフランクの怒った顔ってみたこと無い。今、フランクがどういう顔になっていたか分かりませんが私の心にあるのは元気なときの素敵なフランクです。とても人を思いやる、温かな人柄でした。お互いに「フランク」 「ペギー」と呼び合う仲でした」と語っていた。

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いろいろ悩んでいる人へ

瀬戸内寂聴さんのお経の本を読んでいたらこんなことが書いてあった。古いお経のダマンバタに「愚かな者を道づれとするな 独りで行くほうがよい 独りで歩め」とあるそうです。人生も同じように群をなしてはせずに、独りで孤独に耐えながら歩めと説いている。僕の今の心境にも似ている。

寂庵さんはこの本をどこへでも持ち運びいつでも気軽に開いて読んでほしいという。疲れた時、さびしい時、心に屈託をかかえている時、孤独で泣きたい時、あるいは幸福感で心が満ち足りて思わず誰かに話しかけたいような時、こっそりとこの本をひらいてみてほしいと言っている。

寂庵さんの「美しいお経」という本の中にこうした言葉がいっぱい書いてある。世の中にはいろいろと悩んでいる人もいるはずです。自殺者が年間3万人もいるそうですが、もしも悩んでいたら、ウソと思ってこの本を読んでみたらどうでしょうか。きっと心がおだやかになることでしょう。

どのページにも短い美しいお経や詩歌の言葉がささやきかけてくれるのです。ほんとうに短い言葉を声に出してくり返し口ずさむだけで心がおだやかになってきます。人間は生きているかぎり、この世では苦しさに出合うものです。辛いこと、いやなこと、腹の立つことにあったらひたすら耐え忍べという。

法句経184番に「耐え忍ぶことこそ 最上の行、苦しさに耐え忍ぶこそ この上なき涅槃なり」とある。そしてお釈迦さんは、この世は苦だらけとはっきりおっしゃっています。自殺などを考えてはいけない。どんなことがあっても耐えてほしいと思う。

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ラジオ体操80年記念放送

5時21分の気温14.7度で湿度は72%で風速2.9mでした。ラジオ土曜朝一番ではラジオ体操特集をやっていた。ラジオ体操の永野信一氏が解説していた。今日は港区愛宕山の放送博物館前からラジオ体操80年記念の放送だった。ラジオ体操が始まる前6時22分の気温は13.9度で湿度は73%、風速3.4mになった。これからは体操の直前が一番気温は低くなります。

永野信一氏が新潟で指導中に第2体操の片足跳びを逆にして失敗し赤恥かいたことがあったといわれた。みんなの体操は平成11年から始まった。第1と第2は職場体操である。第2は少し強く複雑とも言われた。現在はこの永野信一氏、多胡肇氏、西川佳克氏、岡本美佳氏など4名が指導されている。僕は多胡さんだけ2年前にお会いしている。

大分川河川敷でやっている大分川ラジオ体操同好会の話、歌手の岸田智史さんの話もあった。ラジオ体操は東京都内では無数にあります。僕たちは昔、駒沢オリンピック公園の一角で毎朝、ラジオ体操をしていた。今はどうなっているかわからないが毎朝30名ほどで踊ったり時には炊事もしたり色々なことをしていた。ラジオ体操は指導者が前に立ってやっていた。

平成15年3月、四日市市の南部丘陵公園のライオン像広場で南丘ラジオ体操会が結成されました。現在は毎日40名~50名ほとがこの広場でラジオ体操第1第2をしている。朝日新聞、中日新聞、伊勢新聞、地元のCTYケーブルテレビなどの取材もあり会員数は138名になった。

僕たちのラジオ体操会は各人持参のポケットラジオだけです。誰も文句もいわない。体操中に雑談している人もいます。でも、誰も何も言わない。みんな自由にのびのびとやっています。雨天以外は一年中やっていますが真冬1月~2月は少なくなり25名ほどに落ち込みますが春から夏、秋えと多いときは60名ほどが近くの笹川団地などから集まってくる。年平均して毎日45名ほどです。

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