5時22分の気温は1.8度で湿度は70%でした。ラジオからタンポポ児童合唱団の「森の鍛冶屋」の曲が流れていた。ラジオ体操は22名が集まってきた。7時過ぎに帰宅すると万歩計は12.680歩になっていた。
東大紛争・学生たちのその後をテレビで見ていた。40年前、大学紛争で東大・安田講堂に立てこもった学生たちのその後を追っていた。
昭和44年1月18日、安田講堂の封鎖解除が始まった。8500人の機動隊による激しい放水と催涙弾の中、安田講堂は翌日落城し、350人以上が逮捕された。
この闘争にかかわった若者たちの10年後、それからさらに30年たった現在の姿を紹介していた。彼らの40年を通して、「あの時代は何だったのか」「彼らは何を残したのか」を検証した。
40年前の1969年(昭和44年)1月18日東大安田講堂事件は起こった。その当時、僕は38歳で長男は10歳だった。僕が学生だった昭和26年~30年当時は大島渚氏が京都府学連の委員長だった。僕は当時は大学新聞を作るために学生運動を取材していた。
当時、東大生だった「中核・革マル」の著者、立花隆氏や浜松生まれの片桐一成氏も出演していた。片桐氏は出版社にいて29歳で退社し弁護士事務所を開いた。
1968年6月15日、6月28日大河内一男総長は1200名の機動隊を導入した。7人の学生処分をした。1969年1月18日、今井清さんは医学部6年生だった。38歳で実刑判決を受けた。
東大全共闘議長の山本義隆さん(当時26歳)はのちに素粒子論研究家として有名になった。今は駿台予備学校講師らしいが学生時代より秀才でならし、大学では物理学科に進んで素粒子論を専攻した。物理学者としての将来を嘱望されていたが、学生運動の後に大学を去り、大学での研究生活に戻ることはなかった。
今井澄さんは薬剤師になり国会議員にもなり62歳で亡くなった。今井澄の獄中日記が「たちまち日記」の書名で遺族によって発表された。諏訪市の中央病院院長として働き今井さんはガンで62歳で亡くなられた。ご冥福をお祈りします。そして当時の加藤一郎総長は「ノスタルジアで一昔前の思い出」と語っていた。
1978年11月25日放送の『ルポルタージュにっぽん「おとこ東大どこへ行く」~10年目の東大全共闘~』。 作家、橋本治氏がでていた。東大紛争の真っ最中に橋本さんが作った東大駒場祭のポスターが話題を呼んだ。
武田和夫さんは落城2日前まで安田講堂内にいた。その後、東大を中退して山谷で働く。その武田さんも60歳になってビル管理会社で働いていた。大学を中退したことに後悔していないと言う。
山崎晴久さんは1947年生まれで60歳。当時は25歳で日本大学の学生だった。今は自動車整備工場を経営していた。妻の恵子さん(中国出身)と5歳の長男と暮らしていた。
山崎さんは、プロジェクト猪 編集の「全共闘白書・アンケート 今こそ語りはじめよう」で次のようにアンケートに答えていた。運動に参加した理由は自らの意思です。自己評価は懐かしい。いろんなことがあった。また、あの時代に戻れたらの質問に、「しない」「アオらしい」と答えていた。
相原亮司さん(60)は、茨城県日立市生まれ。 67年に東京大学に入学し、翌年、同大医学部の学生に対する大学側の処分に端を発した「東大闘争」に加わった。学生運動の中で、教授を監禁した容疑で逮捕され、4ヶ月間、服役した。相原さんは大学ではマルクスの著作などを読み、仲間たちと議論にふけったという。そして三里塚農民になった。
芥 正彦(あくた まさひこ)さん(63)も、全共闘側の一人として参加しのち大学を除籍になり俳優になった。
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