硫黄島で託された写真が世紀を越え祖国へ

wave特集・わが人生の歌語りで五木寛之のリクエスト曲で久保田早紀の「異邦人」が聞えていた。5時10分の気温は氷点下1.7度で湿度は92%でした。6時24分では気温は氷点下2.8度まで下がった。寒い朝でしたがラジオ体操は25名が参加した。

heart01昨夕、報道特集で「硫黄島で託された写真が祖国へ」の番組を見てとても感動した。太平洋戦争末期、日米激戦の地となった硫黄島で、捕虜の日本兵から米海兵隊員の父親に託された写真が何人かの関係者を経て遺族のもとに返ってきた。

snowboard米カリフォルニア州フオールブルック在住の弁護士スティーブ・ロパルドさん(54)は、2004年に他界した父親の元米軍中尉、フィオレンツォさんから写真を受け取った。

sign01写真は手札判で、日本人男性と女性、子供の3人が肩を寄せ合っているものなど2枚。裏には「サカイ・タイゾー」「スミコ」と署名があった。

sign02ロパルドさんが知人の静岡市の元教員、塩沢伸介さん(当時72)に寄せた手紙によると、中隊を指揮していたフィオレンツォさんは1945年3月中旬、捕虜になった日本軍の通信担当者のサカイ曹長を尋問。その際、妻子と撮った写真を「あなたに持っていてほしい」と渡されたという。2人は塹壕で約3時間、フランス語で語りあったという。

sign03硫黄島元アメリカ海兵隊フレッド・ヘインズ少将はサカイ氏は私たちに「バンザイ突撃に気をつけろ」と警告してくれましたという。

impactロパルドさんは「父は死去する前に幾度も、サカイ氏との出会いを畏敬(いけい)の念を込めて語り、写真を家族に返すことは非常に重要なことだと話していた」と手紙につづってあった。そしてロバルドさんは長女るみさんの住む横浜に写真を約束どおり返却するためにやってきたのだった。

cherry1945年3月26日日本軍の組織的戦闘が終結した。サカイ氏の本名は坂本泰三さんでした。坂本さんは画家を夢みてフランス語を学んだという。そして1984年坂本泰三さんは他界した。享年68だった。

sign05ロパルドさんが入手したアメリカの公文書では、サカイ氏は当時28歳で、住所は「東京淀橋柏木1丁目163」となっているという。

camera写真は出征直前に東京・板橋区赤塚で撮影されたものだった。「60余年の時を越えてお預かりした写真を約束どおりお返しします」とロバルトさんから受け取ると長女るみさん(60)は「あなたのお父様がずっと誠実にこの写真を返そうと思っておられたことに感謝します」とお礼を言って受け取った。

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あの戦争は何だったのか

5時20分の気温は2.9度、湿度は93%でした。ラジオからウィーン少年合唱団の「ジングルベル」や竹内まりや「今夜はheaty party」の曲が流れていた。ラジオ体操を終えて帰宅7時、万歩計は1万3千歩になっていた。

さて激動の昭和をテレビで見ることができた。「あの戦争は何だったのか」というタイトルでした。日本が太平洋戦争へ突入するまでの道を、ドラマとドキュメンタリーで再現してくれた。日米戦争が始まったとき僕は10才の少年でした。戦争がもっと長引いていたら赤紙がきて僕も兵隊に取られるところだった。

ドラマは陸軍大臣・東条英機(ビートたけし)と首相・近衛文麿(山口祐一郎)の対立、日米開戦の回避を望んだ昭和天皇(野村萬斎)や陸軍軍人・石井秋穂(阿部寛)らの苦悩を中心に描いたものだった。当時はテレビがなかったから今こうしてドラマで見ることができて感激してみていた。

ドキュメンタリーでは初公開の資料や関係者の証言など、東条、近衛のほか、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六、言論界をリードした徳富蘇峰らにスポットをあてた。日米開戦前から米国は日本の暗号を解読し、日本の出方を分かった上で外交交渉に臨んでいたことを明らかした。ゲストはノンフィクション作家・保阪正康とジャーナリスト・鳥越俊太郎の両氏でした。

東條英機は東京裁判で絞首刑の判決を受け、巣鴨拘置所内で死刑執行されたのでした。64才でした。僕は雑司が谷霊園で東條英機の墓をみつけた。ごく普通の墓でした。そっと自分の名刺をいれてくると後日、夫人から挨拶状が届き恐縮したものです。そしてあの戦争は何だったのかと考えさせられる番組でした。

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